三歳で写仏をはじめ、わずか十歳の頃には仏像彫刻家となることを決意しました。しかし高校二年、十七歳のときに阪神淡路大震災が実家を直撃。家は全焼。それまでの生活は文字通り跡形もなく消え去り、一度は夢を諦めました。
紆余曲折、佛師「立花麟士」が二十歳で仏像彫刻の師匠の内弟子となるまでの物語。長文となりますが、ぜひお読みいただければ幸いです。
三歳ではじめた写仏、亡き祖母に捧げた数百枚の写仏画
もともと母が信心深い人で、小さい頃からお寺参りや仏様に手を合わせることが日常の中で習慣となっていました。そして、私自身は絵を描くことがすごく好きで、三歳の時、写仏(仏像の絵を模写すること)を始めました。
九歳の時に祖母が亡くなりました。すごくおばあちゃん子だった私は、その時までに書きためていた写仏の絵が何百枚とあったのですが、それを全部祖母の棺に納めることにしました。子供心に亡き祖母を弔うために、自分の作品を一緒に送り出したのです。
その時、わずか九歳ではありましたが、自分の人生、写仏をするのはこれで終わりだという感覚があって、「じゃあ写仏を卒業したら何をしよう?」と、子供なりにすごく虚無感にとらわれました。
九歳、仏像彫刻との出会いは悔しさと共に
それで、どうしようかという時、近所の方から仏像彫刻の作品展がひらかれているから見に行ってみたらとお話をいただきました。それが仏像彫刻との最初の出会いです。
それはアマチュアや同好会の方が集まって出展している作品展で、私はどこどこの先生のところで習っています、私はどこどこの先生に、という感じのものでした。当時、写仏の代わりをどうするかと悶々としていた私は、団体の代表の方にストレートに思いをぶつけることにしました、「仏像彫刻をやりたいです」と。
そうすると間髪入れずに「それはできません」という返事をいただきました。理由を聞くと、子供だし刃物を使うから危ない、まして続くわけもないしできないだろうと理由を教えてくれたのです。
まだ子供ですし、それはそれはすごく悔しかったです。「なんでこの人こっちがこんなにやりたいって言ってるのに、できないって決めつけてやらしてくれへんのやろ。」、そんな風に強く憤ったのを今でも覚えています。
子供ですし、そう言われてしまってはしぶしぶ帰る以外に選択肢はなかったのですが、内心では「それならもうええわ!今に見とけよ!」と思ったものです
十歳、師匠との出会い
それから半年後、また同じ方から今度は「須磨寺(神戸市須磨区)の商店街にギャラリーがあって、佛師さんが個展をやってるよ」と教えていただきました。
前回見に行ったのはアマチュアの方々の作品展、今回は佛師の方の個展。それはぜひ見てみたいとなって、すぐに母に連れていってもらいました。
実際に作品を見ると、それはもう圧倒的に作品のレベルが違って一気に心を掴まれました。そして、再び仏像彫刻をやりたいという思いが湧き上がり、どうしてもこの方に仏像彫刻を習いたい、なんとかして習いたいと母や周囲の大人に自分の思いをぶつけてみたのです。
そうすると受付の方が「この先生は教室もやってるからいっぺん聞いてみたら」と教えてくれました。母は、アマチュアの方にも断られているんだから佛師の先生なんて絶対無理だろうと言うのですが、とにかく聞くだけ聞いてほしいと電話してもらいました。
私のことを聞いた佛師の先生から、「じゃあとりあえず一回仕事場に遊びにおいで」と仰っていただきました。実はこの方が須磨寺近くにいらっしゃって、後に私の師匠となる人物だったのです。
実際お会いすると、
「なんで仏像彫刻をやりたいんや?」
「なんでかわからんけどとにかくやりたいんです、教室入れてもらえませんか?」
「それは良いとして、うちの教室は水曜日しかない、水曜日は学校ちゃうか?」
あぁ、これはやっぱりだめなのかなと思った矢先、
「土曜日やったら来れるか?」と続きがあったのです。
「土曜日はお昼からなら来れます」
「ほんなら土曜日のお昼からおいで」
そう言って、私一人のためだけに、教室を作ってくれたのです。
当時、私が十歳で師匠は四十歳の時のことです。
師匠とマンツーマンで仏像彫刻の勉強をさせていただき、最初に仕上がった一番目の作品、レリーフ板彫りのものなのですが、それが仕上がったタイミングで、去年断られた同好会の方々の作品展があるとのことでして、出品申し込みをしたらすぐに受理されました。
作品展が始まるとすぐに代表の方のところへ行って、「去年断られたんですけど、実はこの作品は私が彫ったものなんです」とわざわざ伝えにいきました。お恥ずかしい話ですが、子供の頃はとにかく負けず嫌いな性分でしたので、どうにかして認めてもらいたいと思っていたのです。
そんな子供相手ですが、実際その代表の方はとても懐の深い方で、後日お菓子を持って家までお越しいただき、「あの時は申し訳なかった。今後、ぜひ頑張ってほしい」と、わざわざ言いにきてくださったのです。
その後もその方とは長くお付き合いが続くのですが、佛師になった時にも「やっぱり君は佛師になったんやなぁ」と感慨深く仰っていただきました。
読売新聞に掲載「神戸に少年佛師あらわる」
さきほどの作品展がひらかれている間、読売新聞の記者の方が作品を見にいらっしゃっていました。十歳の男の子が仏像を彫ってるというのは、珍しいことと感じたようです。ぜひ取材をさせてほしいというお話をいただき、「よろしくお願いします」というお返事をしました。
実際、私は当時まだ小学生で読売新聞も取材というものもよくわかっていなかったのですが、少ししてその記事が新聞に掲載されると、「神戸に少年佛師あらわる」という見出しで随分と大きな扱いでした。
新聞に取り上げられてからというもの、周りの大人の反応が変わってきたのを子供ながらに強く感じました。学校の先生含め周りの大人が、立花は本当にこれでいくんだなと、私の言葉を本気にしてくれるようになっていったのです。
一番目の作品をしあげたのが小学五年の十歳で、その当時、何か明確な理由はありませんが「将来これでご飯がたべたい、これを仕事にしたい」と思うようになりました。六年生の卒業文集には、将来の夢は『仏像彫刻家』と書きました。
ご縁に恵まれた中高時代の恩師
中学にあがるとき、小学校の担任の先生が「この子はこれこれこういう子で、新聞にも取り上げられて」と中学校側に伝えてくれていました。
そして入学初日、クラス分けを見てみると担任の先生が美術の先生でした。美術の先生なんて各学年にいるわけではありませんので、彫刻をする私にとってはとてもありがたいことでした。
部活動は柔道部に入ったのですが、練習も試合も非常に多くて、顧問の先生も非常に厳しい方でした。これでは彫刻を学び続けるのが難しいかなぁと思っていたところ、担任の先生が柔道部の顧問の先生に、この子はこういう子でこういう理由があるから、彫刻をする時にはどんな場合であってもそっちを優先させて休ませてほしいと話をつけてくれました。
そのおかげで彫刻に通う場合は、試合があろうが、合宿があろうが、練習があろうが、すべて免除してもらい三年間を過ごしました。
その美術の先生は、ほんとうに私のことを理解してくれる方で、結局三年間ずっとその美術の先生が担任でした。
高校にあがる時には、中学の時と同様、私のことや彫刻のことを内申書に詳しく書いていただきました。そうすると高校ではまたも三年間、担任が美術の先生となったのです。
中学、高校時代の恩師が、ともに美術の先生です。これはやっぱり「ご縁」に助けられてのことだろうなと思うのです。
十七歳、阪神淡路大震災
少し話が前後しますが、高校二年、私が十七歳の時に震災(1995年1月17日 阪神・淡路大震災)が起こりました。
震災の被害はすさまじく、実家は全焼しました。自分が彫った作品や道具はおろか、学校のもの、身の回りのもの、写真や思い出がすべて燃え、何もかも無くなってしまったのです。
加古川(兵庫県東播磨地方)の親類を頼り避難していたのですが、当時は本当に心がくじけていました。
学校すら行けないという状況が半年以上続いたのですが、やっと神戸に戻る目処がつき、少しずつですが日常が戻ってきた時、「あぁそうだ、彫刻をほったらかしにしている」ということに気がついたのです。
それでも当時の私は、心の中にぽっかり穴があいたと言いますか、ものすごく大きな喪失感を抱えておりましたので、彫刻どうしようかな、このままやめようかなということすら思っていました。
神戸に戻ってすぐ、彫刻を半ばやめるつもりで師匠に挨拶に伺いました。
そして、震災が起きてからのことを説明して、まさに彫刻はやめようと思っていますと言おうとした時、「ちょっと待っとけ」と言ったまま師匠は奥に入っていきました。
戻ってきた師匠の手元には、彫刻の道具がずらっと一式揃っていました。そして、一言、「これ持って帰れ」と仰りました。
師匠にそんなふうに言われた手前、やめますなんて言えません。「ありがとうございます」と伝え、いただいた道具をありがたく持ち帰ったのです。
きっと師匠は、私の心を見透かしていたのだろうと思います。あれやこれや言うわけでも、まして同情するような言葉を言うわけでもなく、言葉少なに私を本来の道に引き戻してくれたのです。
そこからまた当たり前のように彫刻をする生活を取り戻しました。
十八歳、家業と彫刻のあいだでゆれまどう心
高校卒業を控えた十八歳の頃、進路をどうするか?という話になった時に、私は当然佛師になることを考えていました。十歳の頃に決めたことです。
ですが、それまで私のやることをがんばれがんばれと応援し続けてくれていた親から、突然「それは困る」という話を切り出されました。私の家は石材業を営んでいたのですが、父の跡を継いでほしいということだったのです。
私の家は男三人、女三人の六人兄弟で、私は上から五番目の三男でした。男兄弟の誰かに継いでほしいと思っていたようですが、長男も次男もまったく違う仕事をしており、残るは私しかいませんでした。私が継がなかったら誰も継ぐ者がおらず、家業をたたまざるえない、頼むから継いで欲しいとお願いされたのです。
自分の親にこうまで言われ、それを断ることは私にはできませんでした。どうしても心のどこかで諦めきれない部分はありましたが、これはもうしょうがない、彫刻は趣味でとどめておこうと父の会社に入ることを決意しました。
実際、父の仕事はやりがいがあります。生活をしていくためにも仕事をしていかないといけませんし、親孝行というわけではありませんが、これまで自分のわがままにも何も言わず付き合ってくれ、自由奔放に育ててくれた親に心配をかけたくもありません。心の中では悶々とする思いもありましたが、会社を継ぐための勉強もはじめました。
成人式直前、亡き祖母に一喝される
高校卒業から二年弱、父のもとで仕事をしていましたが、佛師になりたいという思いが消えることはありませんでした。毎日毎日、どうしようどうしようと迷い続けていたのです。
その迷いが、二十歳の成人式を迎える頃にピークに達していたのでしょう、成人式の数日前、九つの時に亡くなった祖母が夢に出てきて、「あんたなぁ、男のくせに何をぐじぐじぐじぐじ悩んどるんか知らんけど、言いたいことがあるならさっさと言いなさい!」と一喝されたのです。
ものすごい気風(きっぷ)のいい祖母だったのですが、見るに見かねて私にどうしても言わずにおれなかったのかなと思います。大好きな祖母にまではっぱをかけられた手前、やはり言うだけ言ってみようと思い直しました。
成人式から帰ってきてすぐ、父親に言いました。「あの、会社を継ごうと思ってがんばってはいるけど、もう一つの佛師になりたいという思いも捨てきれていない。会社を辞めてまで佛師になろうとは思っていないけど、そういう思いも持っている」と。
すると父親から、二つ返事で「そっち行ってええぞ」と返ってきたのです。
思わず出た言葉は「えっ!!!!」の一言。今までさんざん「頼む」と言われてきたのに、いきなり行っていいぞとなってしまいました。そうなると今度は逆に私のほうが、「いや、それはあかんやろ!会社どないすんの?」と慌ててしまうのでした。
父も色々と思うところはあったと思いますが、「いやまぁ、それはそれでどうにかしたるから、お前はお前でしたいことしたらええ」と、私の背中を押してくれたのです。
その後、もちろんすぐに仕事を離れることはできませんでしたが、家族の協力により、ついには長男が跡を継ぐという話でまとまりました。いよいよ私が十歳の頃から掲げていた「佛師になる」という夢が、いよいよ現実のものとなったのです。
二十歳、師匠に試された心意気
家業の話がすんだ私は、意気揚々と師匠のもとを訪れ、私自身のつもりつもった思いと、佛師になりたいこと、内弟子にしていただきたいことを伝えました。
しかし、師匠からは予想だにしないまさかの返事をいただきました。
「あかん!」と。
それまでさんざん紆余曲折がありましたが、家族をはじめ色々な方に助けられ、これでようやくというタイミングです。私の中では最高潮に気持ちがあがっていたのですが、師匠はまさにどこ吹く風。本当にけんもほろろに、「いや、もう、絶対にあかん」と、取り付く島もありませんでした。
これには本当にまいりました。いまさら父の会社に戻ることもできません。なにより佛師という仕事をしたい。じゃあといって他の師匠を探そうという気にもなりません。心のなかで、「師匠はこの方に!」と固く決めていたからです。
一夜あけ、あらためて師匠にお願いに行きました。でもやはり、「あかん!」という返事で、やっぱりだめかとすごすごと帰る以外に選択肢がありませんでした。
家に帰った後、一連の出来事を家族に伝えると、母が「私も一緒にお願いしてみる」と言いました。これは自分のことだからと断ったのですが、それでもどうしてもという母の気迫におされ、三度目のお願いに行くことになりました。
三度目の訪問、師匠の態度はそれまでのものとは違いました。師匠が私に尋ねるのです。「そんなにしたいのか?」と。もちろん私に迷いはありません。すぐさま「はい、したいです」とお伝えしました。
ここでもやはり言葉少なに一言、「ほんなら来い」というお言葉をいただき、弟子入りが決まりました。
後日談ですが、師匠にこの時のことを聞いてみました。師匠は二回は絶対断るつもりで、それでも三度目に来たら弟子入りを認めようと決めていたそうです。たかだか二回断られたくらいで諦めるようなら佛師という仕事が務まるわけがない、それなら早めに諦めたほうが私のためだからと、あえて突き放したのだと教えてくれました。
母に言われなくとも三度目のお願いに行っていたとは思います。それでも私は要所要所のところで絶妙のタイミングで家族に助けられ、佛師への道を踏み出すことができました。
なぜ佛師の仕事を選んだのか
よくご質問をいただきます。「何故この仕事を選んだのですか?」と。
十歳の頃には明確な目標として佛師になることを掲げましたが、仏像彫刻にはじめて出会った九才のあの日、仏像彫刻の世界に心底魅了された私の道はすでに決まっていたのかもしれません。
ただ、実際には、佛師になると決めた私にたいして、ほんとうに沢山の方が助けてくださいました。家族はもちろん、近所の方に同好会の方、読売新聞の記者の方、学校の先生、師匠、お客様と。数えきれないほどの人に助けていただきましたし、実際、今も多くの方に助け、支えていただいております。誰かに助けていただくということは本当に幸せで、ありがたいことです。
結局、私は私一人では何も成し遂げることができません。これまで事あるごとに人に助けられ、道筋を示していただき今があるのです。私がなりたかったからなれたのではなく、数限りない、ありがたい「ご縁」と「お導き」によってこの仕事をさせていただいているというのが正直な気持ちです。